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桜影の支配・1

まるで戦いに赴くように、きっぱりとその駅に降り立った。
暗い地下鉄の階段を登って外に出ると、あふれる光の世界が広がる。
振り返ると、遠い視線の先に、新緑に染まった桜の木々が見えた。
ふと足を止める。


とある桜花の季節。やはり私はその駅に居た。


少し遅れてしまった。別に厳密な待ち合わせ時間を決めていたわけではないが、彼が先に着いた、ということはもう「遅れてしまった」ということになるのだ。
私は焦りながら待ち合わせの店に向かった。
店のドアを開けて、彼の姿を探す。
彼は窓際の席に居た。


春だと言うのに、真っ黒な格好をしている。
本当は陽の当たるところが苦手なのだ、と言っていたことを思い出した。
脚を組んで座り、ブラックのアイスコーヒーを飲んでいた。
指の長い、神経質そうな白い手が無造作にプラスチックのカップを掴んでいる。
唇がそっとストローに触れていた。
睫毛が目に影を落とし、物憂げな横顔は私に向けられることもないままで。
有り体にいうと、不機嫌そうだと思った。


私は、遠慮がちにそっと隣に座った。
「遅れて、ごめんね」
彼はそのとき初めて私に気づいたようだった。
「いや」
短く答えたその声音で、彼が今如何に不機嫌かが分かった。


もう私は勝てない。
いや、勝つとか負けるとかの問題ではない。
その指が、唇が、声が、私を支配し、屈服させる。
決して笑わないその横顔を、焦がすように見つめるしかない。


喉が焼けつくように乾く。
私は、彼が飲んでいたアイスコーヒーのカップをつと奪った。
少しだけ飲む。
「…苦い」
「…」
彼は何も言わずに外を見つめたままだ。
私がカップをおずおずと返すと、何事もなかったかのようにまたストローを唇にあて、少しだけ飲んだようだった。


もし今、足下に跪いてくちづければ彼が私を見て微笑んでくれるのだとしたら、私はきっとそうするだろう。
その指が、唇が、私に触れてくれるのだとしたら。
背筋がぞくりとした。
だのに何も考えていないような顔をして、こうやって隣に座っている。
周囲の人々は、ここにこんな奴隷のような心持ちをした女がいるということに気がついているのだろうか。
ガラスから入ってくる日射しは、春そのものであたたかく燦々としているというのに。


「悪魔が醜いのなら、たいした害をしないわけですよ。
わたしはどちらかといえば悪魔を美しい紳士としていつも考えていますよ」
昔読んだ本に書いてあった言葉。
魂を差し出す代わりにこの甘美な疼きを満たしてくれるというのならば、そんなに簡単なことはないのに。
立ち上がれないほど完璧に服従して、支配されるのを待っている。


「なにか、あったの?」
焼けつくような喉から、なるべくいつもの声音を絞り出した。
「別に」
「今日、あんまり出てきたくなかったの?」
「いいや」
取りつく島もないとはこのことだろうか。
私は主に抱擁を求める犬のように、懸命になるだけ。


「…ごめんね、つき合わせちゃって…」
「どうして」
彼はそのとき初めて私の方を見た。
「なんで君は、そんな見当違いなところで謝るの」
「え…」
「俺がいいって言って、今ここに来てるんだから。そこは謝るところじゃない」
「あ…ありがと…」
ありがとう、だって。なんて卑屈な私。醜い愛欲。
私を支配しようとすらせず、受動的に支配し、ただ傲慢に振る舞う悪魔。
勝手に服従している私。それは恋と呼べるのだろうか。
私の愛欲を貪り喰らい、その牙と爪でいつか引き裂くかもしれない獣のような主に、ただ抱かれることを願っている。


「行くよ。桜が見たいのでしょう」
彼は立ち上がって、空になったプラスチックカップを優雅にゴミ箱に放り投げた。
そして私の手を取る。
私は甘く重い息をついた後、つないだまま彼の手を持ち上げ、その甲にそっと隷従の口づけをした。



今、私の視線の先には新緑が広がっている。
惜しみなく注がれる日射しが煌めき、一瞬桜花の香りと影が駆け抜けた。
深呼吸をする。


そして私はまた、戦うようにきっぱりと、歩き始めた。
神崎 瑠珠 * 桜影の支配 * 23:11 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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